『図書館戦争』(有川浩)

こんなラブラブした話が好きだなんて
恥ずかしくて言えなかった

いや

やっぱり好きです

図書館戦争 図書館戦争シリーズ(1) (角川文庫)

表現したいことを表現できる環境
これは皆の求める大切なものでしょう

しかし他人と共存しようとする限り
やりたいことをやりたいだけやれるというわけにはいかない

他人に悪影響をもたらすときその自由は制限されるのです
そして表現の自由も例外ではない

表現の自由が制限されることもまた必要でしょう
この制限を検閲と呼ぶこともできるでしょう

しかし慎重にならなければなりません
権力者が検閲の力を己のために利用することがあってはならない

なぜならそうなると元に戻れないからです

権力者が自分に都合の悪い情報を全て隠蔽することが可能になると
反対勢力が台頭できずその権力者が挫かれることがなくなるのです

だから検閲が恣意的に行われることは断固として避けなければならない

そのためには解釈の余地のない法律をつくらなければなりません
ここを失敗したのが『図書館戦争』の世界です

権力者がメディア良化法の解釈を恣意的に拡張していった結果
図書館が戦場となってしまった

物語は少々激化しすぎな感がありますが
こういう極端な話からこそ学べると思います

「犯罪を扱う小説が犯罪を誘発するからそういった小説を取り締まろう」という議論がありますが
これは間違った分析に基づいた議論です

「小説が」人に犯罪を起こさせるのではありません
小説を読んで「話を真に受けた人間が」犯罪を起こすのです

だから取り締まるべきは「小説」ではなく「仮想と現実を区別できない人間」であるはずです

この点ゆえに「問題のある小説に年齢制限をかける」という議論ならまだ理解できますが

それでも「話を真に受けるかどうか」に年齢がそれほど重要だとは思いません

他人の痛みを想像できる心があるかどうか
ただそれだけのことではないでしょうか

そしてそれは教育の領域の問題であって小説の問題ではないんです

だから安易に事件と小説、漫画、ゲーム、映画を結び付けて考えるべきではないと考えます

差別用語の使用に関してですが
「言葉を受け取る側がどう感じるかこそが重要だ」という考え方がありますが

僕はやはり「言葉を発する側がどういうつもりでそれを発したか」こそが重要だと思うんですよね

相手を傷つけるつもりはなかったのに傷つけてしまった
なんてことは言葉を扱う上で必ず伴う問題じゃないですか

だから誰かを傷つける可能性だけを理由に「差別用語」を制限する必要はないと思う

その可能性が大きいときにはその使用を控えたらいいし
そういう意味で現状の自己規制というのは最善の道だと思います

4年前に友達からこの本を勧められて
手に取ってはみたのですが

冒頭からほとばしるラノベ感に当時の私は嫌悪感を抱き
ずっと敬遠してきました

しかし半年ほど前

疲れ切った身体でふと手に取った一冊
レインツリーの国
に感動させられてから

ひょっとして有川浩面白いんじゃないかということで
再び足を踏み入れた『図書館戦争』

こうして私は有川浩にはまりました

以下追記 (2013/08/19)
<松江市教育委員会による『はだしのゲン』閲覧制限要請について>

はだしのゲンで描かれている暴力行為が実際にあったのかどうか
そんなことはどうでもいいんです

どんな表現に接しても
それが事実であるとは限らない
と捉えることさえできればいいんでしょう

いわゆるメディアリテラシーを持って表現と向き合うことが大事だということ

そしてその能力は多様な表現に接してこそ磨かれるものであると私は考えます

ある作品を読んだときにはメディアリテラシーを備えていなくとも
その後他の作品にも接する中で徐々にそれを育ててゆき
それからメディアリテラシーを持って過去に読んだその作品を振り返ることができればいい

例えば
本に書いてあることはすべて正しいと信じる小学二年生が『はだしのゲン』を読んだとしましょう
もちろんそこに描かれた暴力行為が全て事実であると彼(彼女)は考え、ショックを受けるでしょう
これを松江市教育委員会は問題と捉えているわけです

しかしそれは一時的なものでしかありません

成長してメディアリテラシーを身に着けた彼(彼女)は
その能力で過去に読んだ『はだしのゲン』を振り返るのです

何も問題はない

この教育委員会は教育を時間的なものであると捉えることができていないのです

どんな経験も成長の糧となる